しろうとが、ああだこうだと、いろいろ愚行錯誤(!?)しております。
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2020年3月1日日曜日

凡庸な返事

コロナウイルスによる新型肺炎で世界が大騒動な時に、食べ物やら飲み物のことを書くのは不謹慎な気もしないではありません。

一週間後に地球が滅びるとしたら、あなたは何をしますか? という例の究極の問いを思い出しました。
やはり、本を読んでは考え、蕎麦粉を挽いては考え、蕎麦を打っては考え、パンを焼いたり、コーヒー豆を煎っては考え、挽いては考え、淹れて飲んでは考え、これまでと変わらないのだろうなと思います。

「一杯の紅茶のためには、世界など滅んでもいい」と書いたのはドストエフスキーでしたが(『地下生活者の手記』)、そんな大それたことは言えません。
けど、以上、3種類の安い生豆を注文しました。

エチオピア シダモG2 (内容量:1kg袋)
タンザニアAA(内容量:1kg袋)
パプアニューギニア エリンバリ GOLD(内容量:1kg袋)

2018年12月21日金曜日

唯一の誇り

珍しく、今年はすでに、ささやかな幾つかをを残して、為すべきことはすべて完了。
年賀状の印刷や手書きのコメントも書き終わり、残るは借りた無料でソバ畑2ヶ所のお礼と、家の中の片付けや自身の「精神的整理」のみ。

かつて同人誌でいっしょに頑張った、あの人やこの人に年賀状も出さないまま過ぎた歳月が結構長くなってしまって……。
皆、自分の才能の限界まで書いた、とは思う。
それが唯一の誇り。

たまたま、もう一度あの人やこの人といっしょに雑誌を出す夢を見ることがある。
さよなら三角、また来て四角。




2018年2月19日月曜日

もっと明るく未来を指し示してくれる小説

相変わらず、電子書籍の作り方にはまっていて、epubという
テキスト中心の書籍に向いたファイル作りを練習している。
その際に、他人のテキストを使うのはまずいので、かつて自分が書いた文章をパソコン内や外付けHDなどから探し出して来て、書式の付いていないプレーンなテキストファイルに変え、それからepubファイルに書き出し出来るソフトに流し込んで、最終的にepubにする。そして例の「超縦書きビューワ」で開いて見て、ミスがないか点検する。
大体の手順は判ったので、本気になればAmazonのKindle booksとして並べることも可能に思えてきた。

しかし、問題は内容で、どうも人間のくらい部分や解りにくい部分ばかり書いていて、一人の読者も獲得できそうもない。やはり、書くのをやめて正解だったかもしれない。
今時、ドストエフスキーなど読んでいたら生きていられないだろう。
もっと明るく未来を指し示してくれる小説を多くの読者は望んでいる。

2018年2月15日木曜日

「ストーリー」とは別物

もう一作、旧作をepub形式の電子書籍にして、パソコンとスマホで読めるようにした。
↓はスマホ画面のスクリーンショット1頁目、2頁目。



それを少し読みながら小説について考えた。
小説といえば「ストーリー」が重大な背骨のようなもので、「ストーリー性」のある小説は読みやすく解りやすいので歓迎されるし、一般的には小説とはそういう物だと思われている。
私自身もかつてはそう考えていたが、ある時期から小説の魅力は「ストーリー性」にあるのではなく「描写」にあると考えるようになった。
とたんに小説がすらすら書けなくなり、読む人にも解りにくいものになった。読む人に解りにくい、伝わりにくいことが解ると創作意欲が落ちる、というか発表しても仕方ないという気持ちに傾いてくる。

「描写」といっても小説という言葉による「描写」は、たとえば映画やテレビなど映像による描写は異なるが、共通するのは、言葉であれ映像であれ、人間の言動を描写すること。それは単なる「ストーリー」とは別物である。

2018年2月13日火曜日

という思いも少しは

かつて書き散らした原稿をWordや一太郎ではなくテキスト・ファイルにする作業を少し進めている。
電子書籍Epubの勉強・練習にも、Indesign csを使っての印刷用版下のレイアウト作成にも、元データとしては書式が付いていないtxtファイルがいちばん便利だし、データ自体も最も軽いので保持管理が楽になる。
テキストデータさえあれば、電子書籍だろうが印刷された書籍だろうがウェブ上だろうが成形が簡単に行える。
早い話が、自分だけの電子詩集や電子小説集を作っておくことも可能で、その有り様のバーチャルさが面白いかもしれない。
誰にも褒められない畸形な作品ばかりだったが、一応、自分が産んだこどもではある。少しはまとめておかなければ、という思いも少しは。

2013年2月15日金曜日

道具に凝るひと、こだわらないひと

昨日、ある著名な蕎麦店のご主人から電話があって、訳あってご自身では使わない麺棒をいただけることになった。
私のように自己流でいつまで経っても上達しないヘボにはもったいなくて、ネコに小判、豚に真珠なのですが、ありがたくいただいて大切に使わせていただきます。

面白いもので、蕎麦を打つのに道具にムチャクチャ凝るひとがいて、私の知人にも特注した蕎麦打ち台に木口まな板、そば粉保管用の専用冷蔵庫を持っているひとがいる。
そうかと思えば、キッチンのテーブルにホームセンターで購入して来たシナベニアを載せ、麺棒は同じくホームセンターで売られている手すり用の集成材の丸棒やステンレスパイプで、切りまな板はコクヨのカッター板というひともいる。
蕎麦打ちだけでなく、どんな分野でも形から入らないと前へ進めないひとと、スタイルにこだわらず蕎麦が打てれば道具にはこだわらないひとがいる。
文学でも形式から入るひとと、今回の芥川賞作家のようにオーソドックスな形式にこだわらず、書きたいように書いて形式からはみ出してしまって、なんじゃこれ? と言われるひとがいる。
そのどちらも蕎麦は蕎麦、小説は小説であるのは間違いなくてそれが面白いのだけれど、形式内に収まっているのはどこか物足りなさや面白くないという感じは否めない。かといって形式から大きく外れれば外れるほど、これが蕎麦? これが小説? ということになって多くのひとには理解されがたい。
 
私自身は後者も後者、とんでもなく「なんじゃこりゃ」の手合いで「訳わからん」ではありますが。

2011年9月10日土曜日

実生のねずみ大根

早朝、自家用野沢菜少々の種まきに行き、作業終了後にふと採種用のねずみ大根の種がこぼれて発芽したものをそのまま間引いて放置しておいたのを思い出した。きちんと播種したねずみ大根はまだ双葉に本葉が一枚出たくらいだが、実生のねずみ大根は見えている部分で直径5cm位になっているものがあったので3本ほど抜いてみた。



肌が汚いのは大根の大敵であるジムシ(キスジノミハムシ)の幼虫に食べられた傷跡。無農薬の証である。
これで、ひとりで食べる蕎麦であれば3回分、から5回分くらいは使えそう。蕎麦屋さんと違ってあまり大きくない方が使い勝手がいい。
3本を観察するに、まだねずみのお尻のような形にはなっていない。どうも、丸葉のものはお尻が丸くならず尖ってしまうようだ。葉の切れ込みが鋭角で深いものを選んでおいて、採取用に植え直すのが良さそう。来年度の採種の際はこのことを忘れないように。

これで、先日打って冷凍してある蕎麦を食べてみよう。



午後、ほんとうに久しぶりに新幹線駅近くのショッピングセンターへでかけた。ふだんは混雑を嫌って足を向けないのだが、久しぶりに行って驚いた。土日の旧商店街はそれこそゴーストタウンで老人の姿さえ見えないのだけど、ここには子どもたちや若者、都会風のお姉さんたちまでガヤガヤしている。スターバックスもここにはあって、何と満席に近い。
妻の勧めで綿パンを一本買ったが裾直しが一時間後だというので、食料品を買うのに付き合って、さらにふたりで書店で時間調整していて、結局以下の2冊を購入してしまった。
「地上の見知らぬ少年」J・M・G・ル・クレジオ 河出書房新社 2800円
「信州蕎麦ごのみ」山口美緒 信濃毎日新聞社 1400円

ル・クレジオの本は発行されたことを知った時から欲しいと思っていたので、よかった。書き出しからして泣かせる。
小説の起源を遡ってゆくと叙事詩に行き当たるというのが実感される小説だ。

追記
訳者あとがきによれば、本書は「海を見たことがなかった少年」と並行して書かれた長編エッセイである、と。
へえ、そうだったんですか。
小説であれエッセイであれ、ル・クレジオの思考や感性の動くままに書かれたエクリチュールであることに間違いはない。ジャンル分けなど無意味な領域の、純度が極めて高いエクリチュールではある

2011年4月17日日曜日

あれこれ気が多い

 このところずっとテレビがうるさいので消して、入手したN在来のソバの実の選別を毎晩少しずつ行なっていて、今夜、一応、第一次選別が終了した。見た目で明らかに在来種ではないと判断できる、大粒で稜のはっきりしたものは明らかに改良種が交配したものと思われるので必ず除外し、ほかに皮が剥けたものや異形のものも除外。
 今後、さらにこの選別したなかから特にこの在来種の特徴が出ていると思われる形のものを少し拾い出し、これを来年度のための採種用とする。この夏に食用として播くのはその残り。
 何とも細かい根気の要る作業だったが、見ていると改良種のように一律な形や風貌ではなく、結構それぞれに個性があって選別も楽しい。だが採種用に選別しているものは思いのほか共通した形質になった。小粒で稜が明確でなく丸い。
 それからもう一種類、T在来。これは50gほどしか無いが、皮を剥いて実を噛んだ際の苦味、えぐみがこれほど強烈なのはないと思う。産地の県の試験場の研究データのPDFを見ると、味覚センサーでの数値が「苦味」、「苦味コク」、「旨味」、「旨味コク」すべてが他県の品種と比較してダントツに高いのである。
 今年は採種用での栽培だが、来年度、食用に生産して粉になったらどんな風味となるか、今から楽しみである。
 
 ただし、ソバは他家受粉であるのでミツバチなどによる交配を避けるため、それぞれを出来るだけ(出来れば2km以上)離れた場所で栽培しなくてはならない。
 将来的には、N在来とT在来を同量混合して播種し、交配させてみるのも面白いかもしれない。それが私のオリジナル・ソバであったりして、wahaha。
 残雪研究、毎晩一作ずつ読んでいる。
 昨夜までに、「芸術家たちと、ロマンチシズムを読んだ町長の爺さん」(鷲巣益美・訳)と「奇妙な大脳損傷」(富岡優理子・訳)を読んだ。
 小説7編、評論1編、論文3編。合わせて11の夜を楽しめるのです。
(それにしても、「残雪研究・第三号」、執筆者すべて女性で男性がひとりもいないのは男の端くれとしては少しさびしいのですが、こんなに女性が頑張っているはうれしいので、差し引きすれば相当に嬉しい)
 それから江場さんに送っていただいたパトグラフィ。井上光晴の虚言症、早く読みたいのだけど、先ずは第1章をきちんと読んでからでないと4人 の作家のパトグラフィ各論に入れない。そういう構造になっている。

2011年3月10日木曜日

人間の些細な言動をも


 まさにピアノの、音の雫。
 エリック・サティとビル・エヴァンスのピアノは、われわれ人間の心の水面に落ちる音の雫ではないかと思う。
 誰しも人生に一度くらいは何かに物狂いすることがあるのだから蕎麦狂いも決して悪くははないが、この頃つくづく、短くてもいいからピュアな小説が書きたくなっている。
 ピュアな小説という言い方は一種の形容矛盾である。小説は猥雑な存在である人間を鏡のように映し出す猥雑な言語芸術であって、ピュアであるはずもない。にもかかわらず、どうも最近そういう猥雑であるべき小説にうんざりしている自分に気づいて、ギョッとしたりしている。
 小説は人間の些細な言動をも如実に描いてこそ成立する散文芸術なのだろうけど、どうもそれが今風に言えばウザったい。むしろ、些細なものを削って削って残ったものだけ書き留めておきたい。
 って、それって小説としては痩せることであって、むしろ「詩」に近づくことじゃないの